歴史を見つめる:「中部地区最大級の総合物流企業 日本トランスシティの歩み」第1回 四日市港における倉庫業のはじまり

明治時代の四日市港 明治19年には燈明台と燈明台守の官舎が設置された
日本トランスシティは、国内外の輸送から、保管、荷役、流通加工まで、様々なニーズにお応えする総合物流企業です。
現在の日本トランスシティの母体となる「四日市倉庫」が誕生したのは、明治28(1895)年7月。三重・四日市港に創業して、今年(2025年)で130年になります。社名に冠した『倉庫』こそが原点であり、物流の要を担う倉庫業を核に、歩みを続けてきました。
物流事業は、お客さまからの依頼を受け、荷物や商品を安全に保管し、必要な時に必要な数をお届けする事業。社会の経済活動や人々の暮らしを支える「縁の下の力持ち」として、脈々と受け継がれてきました。四日市港における倉庫業の成り立ちを見つめると、様々なアイデアで時代を乗り越えてきた先人たちの熱意に、きっと驚かされるでしょう。
江戸から明治へ──物流拠点・四日市港の役割
物語は、江戸時代の四日市から始まります。港を控えたこの町は、物資の集散地として栄え、菜種油や茶といった特産品が関東へと運ばれていました。江戸に荷船で運ばれた菜種油は「伊勢水」とも呼ばれ、ちょうちんや行灯の燃料として重宝されたといいます。四日市の町や港近くには油問屋があり、農家の副業で作られた菜種油を買い集め、搾油を行う作業場もありました。
明治5(1872)年の「四日市港移出入物品」を見ると、実に多様な商品が扱われていたことが分かります。入ってくるものには、肥料(干鰯や〆粕)、菜種、砂糖、小麦、石油などがあり、肥料は農家の菜種栽培に使われるなど、産業や生活に活用されました。
一方、運び出されたものには、米、茶、油、陶器、傘などがあり、四日市港に集荷された生産物や加工された商品がありました。
このように、四日市港ではすでに「移入→加工→移出」という物流の循環が成立しており、港と地域産業が密接に連携していました。
明治時代に四日市港の役割はさらに大きくなります。
伊勢湾岸はもちろん、東海・北陸・近畿の各地から京浜・東北方面へ送られる貨物は、四日市港を経由するようになりました。肥料商や米穀商が栄え、万古焼や製油といった工業も発展。近代産業の息吹が港町を包み込んでいきます。

明治末期の四日市港 後方右側に灯台、左側に紡績会社の煙突
四日市港に描いた倉庫業の未来
そんな中、四日市倉庫の始祖というべき人物が登場します。実業家・伊藤伝七です。伝七は、財界で確固たる地位を築いていた渋沢栄一の支援を得て、明治19(1886)年に四日市に紡績会社を設立。始めは、地元で採れる綿花を原料に、綿糸を生産していました。
やがて主として中国産の安価な綿を使い、強力な動力を導入することで業績を伸ばしていきますが、伝七にはさらなる構想がありました。
「もっと手軽に、この地元の四日市港に綿花を荷揚げできないものか…」
当時、中国産の綿花はすべて神戸港を経て輸入されており、四日市港では取り扱いができませんでした。輸送費がかさみ、荷が傷むこともあります。伝七は、地元の港で輸入できれば、どれほど便利で、経営上も有利かを痛感していたのです。
四日市港に荷物保管を――四日市倉庫の誕生
伝七は、四日市を代表する企業と、銀行の本社や支店の代表者が集まる「十二日会」という会合を毎月開いていました。四日市の未来を語り合う場で、彼はこう呼びかけます。
「『関西鉄道四日市名古屋間線路貫通による四日市の影響』という報告書が出されました。
その中に『倉庫会社ヲ設置シ貨物ノ集散ヲ便易ニスルコト』と書かれております。
この“倉庫会社”は目新しいもので、最近全国各地で次々と出来ているものであります。」
明治28(1895)年1月の会合は、特に重要な転機になりました。倉庫会社を設立する伝七の呼びかけに賛同した者たちは出資し、発起人となり、明治政府から設立許可を得て、
ついに同年7月12日、「四日市倉庫株式会社」が開業します。

開業当時の本社社屋と倉庫(開栄橋側)
三重県の倉庫業から130年、中部地区を代表する物流企業へ
この瞬間こそが、現在の日本トランスシティの原点。
四日市港において、もっぱら荷物の保管を使命とする新しい事業形態─営業倉庫という概念が初めて形になったのです。
伝七の構想は、単なる事業拡大ではありませんでした。
「四日市のために」──彼はそう語り、地元の港を活かすことで、産業の発展と雇用の創出を目指していたのです。
次回は、四日市港が“開港場”に指定され、国際貿易港へと歩み始める過程です。
参考文献・引用元 『物流は果てしなく-四日市倉庫の歩み-』 『四日市港のあゆみ』
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