歴史を見つめる:「中部地区最大級の総合物流企業日本トランスシティの歩み」第2回 開港場の指定と国際物流への第一歩

明治40年頃の開栄橋(橋の右側が本社)
人と貨物の往来が盛んな要所として機能していた
日本トランスシティは、国内外の輸送から、保管、荷役、流通加工まで、様々なニーズにお応えする総合物流企業です。
現在の日本トランスシティの母体となる「四日市倉庫」が誕生したのは、明治28(1895)年7月。三重・四日市港に創業して、130年になります。社名に冠した『倉庫』こそが原点であり、物流の要を担う倉庫業を核に、歩みを続けてきました。
物流事業は、お客さまからの依頼を受け、荷物や商品を安全に保管し、必要な時に必要な数をお届けする事業。社会の経済活動や人々の暮らしを支える「縁の下の力持ち」として、脈々と受け継がれてきました。四日市港における倉庫業の成り立ちを見つめると、様々なアイデアで時代を乗り越えてきた先人たちの熱意に、きっと驚かされるでしょう。
四日市港が開港場に――開かれた国際物流への扉

明治40年頃の四日市港
明治28(1895)年7月12日、ついに開業した「四日市倉庫」。
当初は、米を中心に、肥料として使われる魚粕、菜種油の取り扱いが中心で、伊藤伝七が思い描いたほど綿花の取り扱いは多くありませんでした。そんな中、大きな出来事が…
明治32(1899)年、四日市港が永年の念願であった“開港場”の指定を受けたのです。
開港場とは、条約や法令によって外国との貿易に使用される港のこと。これにより四日市港は、内地米の出入りや外国米・大豆粕などの輸入が増加し、国際貿易港として発展していきました。
この頃、伊勢地方の紡績業は急成長を遂げ、加工した綿糸を輸出する体制が整い、四日市港は“ものづくり”と“物流”の交差点となっていきます。
しかし、原料となる綿花の輸入には課題がありました。この地方の紡績業者が消費する綿花は、明治34年の統計で約14万俵。その大半はインド・ボンベイからの輸入でしたが、神戸港や横浜港で荷揚げされ、四日市港では取り扱いがなかったのです。
このような不利な状況を改善するため、四日市倉庫の経営陣は、明治政府に陳情を重ねます。ボンベイからの航路船が四日市港に寄港するよう、熱心な活動を続けた結果──
明治35(1902)年、中国・上海から綿花を積んだ船が入港し、初めての輸入が実現しました。
また、外国米の輸入が激増していた明治38(1905)年~39(1906)年には、四日市倉庫は、保管能力を高めるため倉庫8棟を竣工。やがて、ボンベイからの船も四日市港に寄港することになり、綿花の直輸入が拡大します。
そして、明治40(1907)年、綿花が、四日市港で最も多い輸入金額を占めるまでになり、伊藤伝七が思い描いた時代がついに到来したのです。

治後半に竣工した浜田外起倉庫、寅高入倉庫(昭和3年頃撮影)
四日市港と倉庫業の可能性に挑む経営者
昭和に入り、四日市倉庫には「中興の祖」と呼ぶにふさわしい人物が経営陣に加わりました。
取締役支配人となった榎並赳夫です。銀行の証券部で手形取引を担当していた彼は、当時の取締役・熊沢一衛と親しくなり、協力を求められて四日市倉庫に迎え入れられました。
榎並が加わった昭和2(1927)年は、金融恐慌が起き、経済的に不透明な時代。そのような状況下であっても、榎並は強い信念を胸に、四日市と四日市港の発展を模索します。
「四日市港の背後地帯には、精油業や精米業、肥料業など歴史を誇る産業もあるが、膨大な土地が利用されないままだ。倉庫業者の共存共栄を実現するには、工場誘致、すなわち“顧客の創造”をしなければならない。」
「工場誘致で、種をまいて、それを育て、実らせる。こうすることによって、地域社会も発展し、倉庫業も拡大がはかられることが可能になる。」
榎並は、四日市倉庫の経営とともに、四日市港の発展と地域開発に尽くすことになります。
毛糸紡績工場の誘致──港と産業をつなぐ戦略
当時、国内の紡績業においては、羊毛の需要が高まり、オーストラリアからの輸入が本格化する兆しを見せていました。榎並は、四日市港に毛糸紡績工場を誘致し、これまでになかった羊毛の輸入を始め、港の物流と産業を一体化させる構想を描きます。
昭和7(1932)年は、決断の年となりました。榎並は、当時の大阪繊維業界のリーダーたちが毛糸紡績会社を設立するという情報を入手。さっそく誘致に動きます。
榎並自ら大阪に出向き、リーダーたちが乗る列車に乗り込み、列車の中で四日市港への進出を懇願しました。榎並が大阪に足を運んだ回数は、1か月間で実に20回を超え、こうした熱意が実を結び、毛糸紡績工場を誘致した初の成功例となりました。
この第一歩が、昭和7年から続いた工場進出(飼料工場、毛織物工場など)の呼び水となり、四日市港の産業集積を加速させたのです。
四日市港における総合物流のはじまり

昭和3年の四日市港 左に千歳町の埋め立て地ができあがったばかり
その少し前の昭和3(1928)年。北海道の大手製紙会社から、パルプや洋紙などを四日市港で集荷することを取り付けます。やがて樺太―四日市間の航路誘致に成功すると、新事業として船の代理店を引き受け、運輸部を新設しました。これは、海運、陸運、倉庫業を一体的に行う、いわゆる“総合物流”の始まりといえるでしょう。
この年、パルプ、洋紙、砂糖などの陸揚げと保管が行われ、パルプ原料材も山のように積み上げられます。そして荷が荷を呼ぶ勢いで、輸出用缶詰の荷さばき保管倉庫の指定を受け、カムチャッカから多量のカニ・サケ缶詰も入り活況となりました。
次回は、物流事業の拡大に向けて、羊毛輸入の定期航路開設に挑む過程へと続きます。
参考文献・引用元 『物流は果てしなく-四日市倉庫の歩み-』
- カテゴリ