歴史を見つめる:「中部地区最大級の総合物流企業日本トランスシティの歩み」第3回 羊毛航路の開設と総合物流の確立

昭和4年 2号地岸壁造成中の光景
日本トランスシティは、国内外の輸送から、保管、荷役、流通加工まで、様々なニーズにお応えする総合物流企業です。
現在の日本トランスシティの母体となる「四日市倉庫」が誕生したのは、明治28(1895)年7月。三重・四日市港に創業して、130年になります。社名に冠した『倉庫』こそが原点であり、物流の要を担う倉庫業を核に、歩みを続けてきました。
物流事業は、お客さまからの依頼を受け、荷物や商品を安全に保管し、必要な時に必要な数をお届けする事業。社会の経済活動や人々の暮らしを支える「縁の下の力持ち」として、脈々と受け継がれてきました。四日市港における倉庫業の成り立ちを見つめると、様々なアイデアで時代を乗り越えてきた先人たちの熱意に、きっと驚かされるでしょう。
航路の誘致──四日市港を羊毛輸入の物流拠点に
四日市港に羊毛紡績工場の誘致が決定した昭和7年。さらなる発展のため、四日市倉庫の経営者は次の手を講じます。
「羊毛の豪州航路の開設がなければ・・・意味がない」
榎並は、オーストラリアとの定期航路を持つ海運会社に、四日市港への寄港を働きかけます。その熱意に呼応するように、四日市市や商工会議所も官民一体となって誘致活動を展開しました。そして昭和7(1932)年10月──四日市港への羊毛輸入を実現させたのです。
オーストラリアから大量の羊毛を積んだ「メルボルン丸」が、出来たばかりの1号岸壁に入港。羊毛輸入の定期航路船の寄港が始まりました。港には741俵の羊毛が陸揚げされ、祝賀会が催されるなど、四日市の街は大いに活気づきました。こうして四日市港は、羊毛物流の拠点としての基盤を固めたのです。

豪州定期航路が開設され、最初の直送羊毛を下ろすメルボルン丸
認められた港湾運送と倉庫業の優位性

昭和初期の毛糸工場
定期航路が動き出すと、四日市港の周辺には新しい工場が次々と誘致されました。
毛糸をつくる紡績工場を皮切りに、毛織物を扱う工場が建設され、硅石(けいせき)を原料にする加工工場や板ガラス工場など、多彩な産業が集まっていきます。
工場誘致の成功には、四日市港の優位性──港から工場までの輸送経路の短さ、そして羊毛の荷さばきに対する業者の能力がありました。
加えて、倉庫と工場が手を取り合う好循環が生まれ、地域全体に活気が広がります。
当時は、世界恐慌が日本にも波及。満州事変の勃発など戦争の足音が聞こえてくる、先行き不透明な時代でした。そんな時代を駆け抜けた経営者・榎並が唱えた「地域とともに生きる」は、今でも日本トランスシティの企業理念の一つとなっています。
四日市港を支えた保管業務の舞台裏

昭和初期の当社倉庫
昭和10(1935)年、四日市倉庫に一人の若者が入社します。堀木博──後に、四日市港の国際化を牽引することになる人物です。最初の配属は、埠頭事務所の羊毛係。入庫、出庫、通関などの業務を一人で担当する、まさに“物流の最前線”でした。
特に10月から4月は、オーストラリアでの競売・刈り取りシーズンにあたり、船便の入港が集中します。堀木は連日深夜に帰宅する日々が続きました。それでも彼は、着実に羊毛輸入のすべての業務を習得し、通関・保管・荷役の実務に精通していきます。
当時、羊毛相場は一俵三百円。背広一着の値段が既製品で十五円、舶来仕立てで六十円という時代です。保管中に雨にでも浸かれば、大きな損害につながります。
ある夜中のこと──
「雨もりだ! 急いで並び替えをしなければ!」
堀木は急ぎ並べ替えを行いました。倉庫係にとって、預かり荷物の完全保管は至上命令でもありました。
四日市港に積み重ねた実績──“世界的な羊毛輸入港”へ
また、羊毛輸入の手続きにおいて、エフ付け(荷札を付け、不具合の処置漏れを防ぐ)や、仕分け作業はとても重要で、保管・運送処理を円滑に進めるためにも不可欠です。この作業を行う技術がないと、船の受け入れも、その後の入荷もさばけません。堀木たちは羊毛輸入の実績を積み重ねていきます。
こうした現場の責任感も功を奏して、昭和11(1936)年、四日市港は、横浜港や大阪港、神戸港を抜き、羊毛輸入で全国1位を記録しました。
四日市港は“世界的な羊毛輸入港”と名を挙げられるほどになったのです。
次回は、誘致に奔走した経営者の奮闘を描きます。
参考文献・引用元 『物流は果てしなく-四日市倉庫の歩み-』
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